裸の王様

 「美味しいコーヒーをいれる」という一点でコーヒー作りに励んで きた。ある程度の味のコーヒーを作り上げることができた。
しかし、普通の人がこのコーヒーを飲んで、美味しい!と感じられるか? 苦い!と感じられるか? 濃いと感じられるか?
「通」の人が来てくれるだけで良いのだ!普通の人が、特別に美味しいと 感じてくれずとも、「好き」な人が美味しい!と感じてくれるだけで良い のだ!・・・というコーヒー屋の理屈が出てくる。
でも、「通」や「好き」に混じって普通の人が来てくれる。そのお客さん たちを納得させられて、非常に美味しい!と感嘆詞を上げてくれると良い のですが、中々難しいことになる。
味というものには、音符のような記号がない。濃い薄い、苦い、まろやか にしても、表現が自己中心で納得させられるものがない。口では「軽い目 のコーヒーですが・・・」と説明をするのですが、「それ頂戴!」と言って くれるが、納得されているのでしょうか?
 25日 中央公論新書から『コーヒーに憑かれた男たち』という本が出版される。内容はキチンと知らないが、襟立先生のことを中心に書かれていると思う。 その先生から「一人よがりのコーヒーを作るなヨ」と教えられてきた。最近、その言葉を考えるようになった。
「裸の王様」に近い状況になっているのかも知れない。